急性骨髄性白血病(発症時:47歳)

収録時:58歳

女性

総時間:13'46"

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目次

00'03" がんとわかったきっかけ
02'23" がんと知った時の気持ち
03'22" 治療(手術や入院)について
07'20" 支えとなったもの
10'28" 患者会、リレー・フォー・ライフ
13'13" がんを体験したからこそ伝えたい思い~メッセージ~


00'03"がんとわかったきっかけ

 

―― ご自分のご病気がわかった時の話をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。

 

 10年前に青森に夫の転勤で4月に引っ越して来まして、5月にちょっと身体の調子が悪いな、とか思ったんですよね。それが更年期障害かな、とか。で、その日アザが出てたんですけれども、引っ越しでアザになったのかなって言うんで、ちょっと軽く考えていました。心臓がバクバクして胸が苦しくなったので、ちょっと時間を置いたら治ったんですよ。んで、ちょっと病院行こうかなと思って一般の個人病院に行ったら、急性骨髄性白血病です。と直接言われてしまって。
 先生に呼ばれて、事務の人が送りますからと言うことで救急診療の方に運ばれまして先生がお見えになって直接病名を言われて白血病の細胞が92%侵されてる。3日位遅かったら死んでいただろう。と言われて、びっくりして、即入院で。夜あたりから輸血が始まって。そして、そのまま9か月入院していました。

 

―― 身体の不調がまずあって、不整脈だろうと言うことでその時も身体の状態はきつかったわけですよね?

 

 そうですね。あそこおかしいとか苦しいとかいろいろあったんですけれども、引っ越しで疲れていると言うことと、あと更年期障害じゃない?と姉達に言われたりして。あっそうかな、そうかな?と、全然病気をしなかったので。その話を聞いた時にはもう、違う世界に踏み入れたような気分になって、もういっぱいでしたね。

 


02'23"がんと知った時の気持ち

 

―― 予想もしない病名と言うことですよね。

 

 あっ、あっ、あっと言う感じで過ぎて行きました。入院して輸血なんかしてる時に、今後どうなんだろうな?とか、あと何日くらい生きられるのかな?とか。あと、子供にまた会えるのかな?とか。そう言うことは思いました。

 

―― まず、病名を宣告をされて、どう言う治療したらどうなっていくとかという話を改めて聞かされたのはどれくらい?

 

 その次の日。先生のお話ってことで主人と、あと娘が飛んで来ましたので3人でお話を聞いて、治療すれば。と言うお話はあったので、あー良かった。死にはしないんだ。と言うふうに感じました。



03'22"治療(手術や入院)について

 

――具体的にはどういう治療をしていったんですか?

 

 もちろん抗がん剤です。

 

―― 直ぐにもう始まって?

 

 はい。で、6か月で退院出来ると。それで、急性骨髄性白血病の中のM3という型だったので、一番治りやすいというか、そういう、要するに薬が発展がいいというか、そういう面で6か月後には通常の生活で出来るというようなことを聞いたので、少し安心してたんですれども、入院して何か月か抗がん剤を入れて、だいぶ抵抗力がなくなって、感染症のトキソプラズマ脳炎というのと、退院できるようなところでまた肺炎になりまして。で、2回ほど昏睡状態に陥ってしまって。結局、6か月が9か月になって。5月に入院したので翌年の1月末に無事退院というかたちになったんです。

 

―― 急性骨髄性白血病と聞くと、骨髄の移植っていう素人の知識なんですが、そういう治療や選択肢はどうだったんですか?

 

 この型の場合は、そういうことをしなくても大丈夫というような型だったんです。それは良かったなと思ったんですけれども、その続きがありまして。それから7か月後に70%は再発しないという型なのに、その30%の方に入ってしまって、7か月後に再発してしまいました。それで、抗がん剤でまた。
 白血病の細胞のほうを無くして良くなったんです。で、自家移植をしましょうと。移植にもいろいろありまして。自家移植というのがありまして。自家移植というのは、抗がん剤でがんの細胞を死滅させて、自分自身の造血幹細胞をあらかじめ採取して、冷凍保存をして移植するというのを自家移植と言うんです。それで入院をずっとして取ったんです。血小板のほうが上がらなくて、検査しましたら、再再発してました。
 骨髄移植しようと言うことになりまして、また抗がん剤でたたいて、それで、たまたま兄が型が一致していたので兄から貰う予定だったんです。兄が不整脈というので、それではドナーになってもらえないと言うので、血縁関係にドナーは居ないというので、骨髄バンクに頼もうかということで探したんです。探しましたらバンクの方から私の型は該当いただける方がいらっしゃらないということで。先生が世界の方も探してくださいまして。で、やっぱり見つからないで、それであきらめたんです。たまたま兄の奥さんから電話があって、兄が不整脈を治療しててくれて、骨髄移植できるまでになってるからと言うことで。移植が成立しました。



07'20"支えとなったもの

 

――支えになっていたことは何でしょうか?何を支えに?

 

 支えと言うのはやっぱり先生、看護師さん、家族ですね。引っ越して来てすぐだったので、こちらには深い友達が居なかったので、でもちょっと長い入院だったので病室の中の友達、仲間というのがいっぱい出来たので、そう言う方たちにいろいろお話を伺ったり、相談したりして支えてもらったのかなーと思います。今は、もうその人達に、ありがとうの言葉しかないような状態です。

 

――例えば輸血、つまり献血の大切さであったり、あるいは、その骨髄のドナー登録も、今よくテレビとかでも見かけますが、そういったところに対する思いというのは、どんなものがおありですか?

 

 自分は実際、骨髄バンクのほうのドナーさんを使って移植したのではないので、でも、やっぱり探してもらったり、いろいろしてもらって自分の型が無いとなると、やっぱりドナーさんの数というのが大事なんだなというふうに感じました。型が一致しても、その型が一致した人の中でも、私ドナーになりますって言ってくれた時は元気かもしれないけども、病気で検査したら先ほどのうちの兄みたいに不整脈があったり、なんなりしてだめになったり、例えば若い子だと妊娠してあげられなくなったとか、活発に仕事している方は仕事の都合と合わないとなるとあげられない。そういうのが発生してきます。ですから、より多いドナーさんがいれば、その中の1人でいいんですよね、1人でいいんですよ。それでいいんですから、とりあえず登録をしていただいて、その時に、一応、何も不都合がなかったら、ぜひドナーさんになっていただきたい。と言うのが、熱い気持ちですね。で、患者会、血液がんの患者会まろまろというのにも参加してまして、そちらのほうで、登録会というのをやってまして、みんな活発に活動して、輸血のバスの所にいて、ドナーになって頂けませんか?というようなお願いをしているんですけれども、やっぱりいろいろみんな、あっいいです。いいです。というのが続くと。でも、すごくがんばって青森のほうは、ドナーさんのお願いを聞いていただくのも大分多くなって助かってます。 



10'28" 患者会、リレー・フォー・ライフ

 

――現在そのご自身の経験から活動されてることがあるということをお聞きしてるんですけれども、どういった活動をされているんですか?

 

 今は、入院中にテレビでリレー・フォー・ライフというのが映っている番組をみました。その時に病気でベッドに寝ている時です。その時に、もし、元気になった時に、他の県でやっているので、他の県に行ってでも歩いてみたい。というふうに思っていました。

 

―― リレ・ーフォー・ライフっていうのは、どういうことをするんですか?

 

 がん患者同士のめぐり会い。そういうのでいろんなお話をしたり、みんなで歩いて輪を作ろうということで、がんの告知を乗り越えていろいろ治療して元気になった人を祝ってあげようって気持ち。と、亡くなった方やそういう人達のためにルミナリエって言うろうそくを袋の中に入れて、みんな夜に24時間交代でぶっ通し歩いて、偲んであげようというのと、自分たちがこれから闘う人たちがお願いがありますよね、がんばってくださいとか、そういうのを書いてお願いするという気持ち。そういうのをそれに書く。というのをやってます。その他に募金をいただいて、参加していただく方に募金をお願いして、予防を啓発したり、医療関係のほう、研究の助成で役に立ってもらおうということで始めたものなんで、私もそういうのに移植で元気になってから患者会のかたと行っていた時に、青森のリレ・ーフォー・ライフ行われるということを聞いた時に、がん患者の仲間と出会って共に協力しようと思いました。で、笑顔でグランドを歩いてがん患者の辛さ、葛藤、決意、絶望、希望そういうのを語り合おうと思い実行委員に参加させていただいてます。

たくさんの方々来ていただいて参加して頂ければうれしいなと思います。



13'13"がんを体験したからこそ伝えたい思い~メッセージ~

 

――急性骨髄性白血病という血液のがんを体験されて、周りに伝えたいこと、言いたいことがあればお聞かせいただきたいんですけれども。

 

骨髄移植それから献血、リレー・フォー・ライフに参加していただく。この3つのことを皆さんにお願いしたいなって思っています。